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研究室での研究と教育について

 古典力学の創始者として有名なアイザック•ニュートンは、幾つもの言葉を残しています。そのどれもが、研究することの本質を突いており、真に心につき刺さります。その中の一つを取り上げます。

“I was like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.”
「自分は真理という大きな海の浜辺で、きれいな貝や石を拾っている少年のようなものだ」
 
 研究する者にとって、これほど端的に心情を表した文章は他にないのではないかと思います。当たり前ですが、実験で何か新しい事実がわかったとしても、結局、それらは発見される前から自然界にもともと存在しているのです。ただ見つけられていなかっただけであって、その時に実験者が創造したのではありません。ヒトは、自然を前にしてただ頭を垂れることしかできません。上のニュートンの文章からは、そういうことが読み取れます。

 ある事実を発見したと言えるには、客観的にその現象やものを第三者にわかるように見せなくてはなりません。顕微鏡などで観察可能なものであれば可視化する必要があるし、可視化が困難な対象であるならば数値化が必要です。あるいは、それらの両方が必要です。この時重要なことは、特に仮説検証型実験のとき、“ポジティブコントロール”と“ネガティブコントロール”をきちんと取ることです。これらがないと、実験が成立しません。卒業研究や修士研究だからなくてもいい、ということは全くありません。むしろ、実験の基本なので、研究を始める時から常に意識して実施してほしい。ポジコンとネガコンは、ある現象を“浮き立たせる”ためにどうしても必要なのです。生命というシステムの中でその現象が機能しているので、対象としている生命現象だけを生体外に取り出すことはほぼ無理であるし、仮に取り出せたとしても意味を持たなくなる可能性が高い。何か操作を加えた時に、その現象が生命の中でどの程度変化したのか、という指標で評価し、その現象の存在意義を明らかにしていく、というのが近代生命科学の一般的な実験原理となっています。その実験操作自体のモニタリングも含めて、ポジコンとネガコンを取ることは本当に重要なのです。

 『ある現象を浮き立たせる。』、このイメージとして、夏目漱石の夢十夜の第六夜がピッタリ当てはまります。夢十夜は、夢が主題となっているオムニバス形式の小説です。「こんな夢を見た」、という書き出しで各夢(夜)がはじまります(無い夢もあり)。その六つ目の夢が第六夜となります。作中、運慶が山門で仁王像を彫っているのを、自分や多くの見物人が見ている。思わず自分が、「あんなに無造作に鑿(のみ)と槌(つち)を使って自由自在に仁王が彫れるものだな」ともらすと、傍にいた者が「あれは仁王を鑿で作るのではない。あの通りの仁王が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すのだ。土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」という。正にこれが研究のイメージです。生物の中に埋まっているある現象を、ポジコンとネガコンを使って掘り出す所作を、実験とか研究と呼んでいるのだと思います。

 「ポジコンとネガコンに気をつけて実験するだけだったら全く面白みが無いんですけど。」と言われそうです。確かに、これだけだと単なる操作で全然面白く思えません。人の好みは千差万別ですが、私自身にとって、一番研究が面白く感じられる部分は、過去の資料、文献を精読し、何か疑問を持つこと、ではないかと思っています。これが、何かをやりたい、あるいは何かを成し遂げたいと思うことの原動力です。私が大学院生の頃いた研究所のある教授は、研究をやる上で一番大切なのは高いモチベーションを保ち続けることだ、と言っていましたし、今ではそのことがよく理解できます。研究をある程度の期間続けていれば、お金がなくて実験があまりできないような苦しい時期もありますし、ここ10年以上、ポスドク問題が言われ続けて久しいですが、テニュアが取れなくて期限付きポストで繋がないといけない苦しい時期もあります。斯く言う私も長いことポスドクでしんどい時期がありましたが、そんな時も、論文を読んでは実験のアイデアを考え、それらをノートにつけては一部を実践していくという日々を送りました。もちろん、今もやっています。すぐに明日できるようなものから、今は実験方法のないプロジェクトまで、とりあえず色々と考えたものは全てノートに図入りで書く、これがとてつもなく楽しいのです。今思うとこれがストレス発散となり、モチベーションを保ってこれまで続けてこられた理由の一つかなと思います。紙と鉛筆があればできます。
 上と同じくらい面白いのは、実験データがある程度たまってきたら、その意味を考えることです。何かしら、こうではないかとあらかじめ予想を立てて実験します。そして、その予想と実際に出てきたデータと付き合わせて、本当のところを考えていくことになります。ここもかなり楽しい。予想通りだと、自分ってすげーっと自分に感心することも少しありますが、この場合、あまりそれ以上のことを考えなくなりがちです。思考がそこで止まってしまうことが多い。逆に、予想と違う結果が出てきた時、(ポジコンネガコンをチキンととって実験をやっていれば)多くの場合は予想が間違っていることになります。データに熟考することになり、過去の文献を手当たり次第読み込みます。すると、あるストーリーが浮かび上がるわけです。そして、過去の事実と矛盾しない考え方こそ、真実といえるものです。この過程が、推理小説やパズルよりも面白い。頭の体操です。たぶん、変な思い込みや知識があるよりも、柔軟性に富む研究経験が少しだけの若い人の方が、真理に至る時間が短いかもしれません。そういう意味で、これから研究を始める人は、何か新しい大きなことを見つける可能性を秘めているのです。

 長々と書いてきましたが、ここからがやっと言いたいことである、研究室での研究と教育についてです。当研究室では、上述したように基本に忠実な実験を行うことを重要視します。さらに、得られたデータはまとめて、学会や論文として発表します。このような研究活動は、今すぐ役に立たなくとも(もちろん、すぐに役立つデータも含)、将来どこかで人の役に立つと信じています。10年後、あるいは100年後のどこかの国のある人物(その頃にはAI、あるいはその先の今はまだ実体化して無いものかも)が、我々の論文を発展させて人類にとって非常に重要な発見をした、なんてことになったら草葉の陰から大喜びしていると思います(そういう意味で、英文論文を出すことはとても意義がある)。もちろん、自分たちの研究室からとてつもない発見を報告できれば、それに越したことはないです。でも、研究は自分たちだけではできません。先人たちがいて、自分たちがいる、仲間がいる、さらに後人が引き継いでいく。だからこそ、きちんと次代に引き継いでもらえるものを残していかないといけない。これが今を生きる我々の使命です。後人となる学生の教育は非常に重要です。学生教育に日本や世界の未来がかかっていると言っても過言ではないです。メインとなる卒業研究を介して、後人の教育と後世のために研究成果を発表していく、というものが当研究室の基本的な考えです。
 
 研究活動は人が行うことです。研究は、資料の収集と理解、実験原理の理解、手法の構築、データの収集、データの表現、発表などから成り立っています。研究がうまくいったというのは、これらの要素がうまく噛み合って、データが出るべくして出たからです。まさに”運慶の仁王像状態”です(上記を参照)。そこに、間違いのデータはありません。おそらく、研究がうまくいく人は、かなりの高確率でどんな社会に出てもうまくやっていける人です。このようなメカニズムがあるからこそ、たとえ卒業研究だとしても研究の各要素をきちんとこなしやり抜ける人は、どこでも成功できると思います。もちろん、学生個人の感受性も必要です。自分で感じ取り、その感覚を論理的表現に落とし込み、自分の中に取り込む、これができないと、やはり研究はうまくいかないです。しかし、逆に言えば、この辺りのことが自分ででき始めると、自分で研究を進めることができるようになります。そうなれば、研究テーマ(問題)を自分で見つけることができるようになり、どこまでも遠くまで自分の力で力強く歩いていくことができます(=社会で何かしら役に立てる人になっている)。これが当研究室に配属された学生に求める最低レベルの目標です。目標を実現するために、各人に合わせて研究相談も臨機応変に行います。研究室仲間同士での議論も時間が経てば自然に増えていき、互いに切磋琢磨できるようになっています。


 以上は、食物栄養学科の学生に宛てて書いたものですが、もしかしたら他の色々な学問領域、あるいは業種の方々にとってお役に立てれば幸いです。 (2017.8.21)

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"I do not seek, I find."

- Pablo Picasso -

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